なぜ「観測点」から始めるのか
この文章は、「宇宙とは何か」を説明したいわけではない。出発点はもっと素朴な違和感だ。
――なぜ、世界は“見えてしまっている”のか。
私たちは当たり前のように世界を見て、聞いて、触って、生きている。しかし一歩引いて考えると、「世界が見える」という状態そのものが不思議だ。もし宇宙が完全に自己完結した存在なら、そこに“見える景色”は生まれないはずだからだ。
見る主体と、見られる対象が完全に同じであれば、そこに差は生まれない。差がなければ、情報は生まれない。観測とは、つねに「ズレ」や「差分」を必要とする行為だからだ。
それでも世界は、確かに見えている。この事実を真正面から受け取ると、宇宙はどこかで「自分を自分ではないものとして見る工夫」をしたと考えざるを得なくなる。ここから「観測点」という発想が立ち上がる。
宇宙はなぜ自己を直接観測できないのか
人は自分の目で、自分の目そのものを見ることができない。鏡やカメラといった媒介が必要になる。これは人間固有の問題ではなく、「観測」という行為そのものが持つ構造的な制約だ。
完全に一致したもの同士のあいだでは、情報は発生しない。だから観測には、必ず外部化された一点が必要になる。この外部化された点がなければ、宇宙は“存在していても、何も起きていない”状態にとどまってしまう。
観測点とは、宇宙が自分自身を見るために設けた「ズレ」であり、「距離」であり、「他者」である。
観測点は思想ではなく、実装された
ここで重要なのは、観測点が単なる比喩や思想では終わらなかったという点だ。宇宙は観測点を、実際に“動く仕組み”として実装した。
それがDNAであり、身体である。
DNAはよく「設計図」と呼ばれるが、この理論では少し違う捉え方をする。DNAは「何を、どの範囲で、どの精度で観測するか」を決めるフィルター装置だ。光の波長の一部だけを色として見ること、空気の振動の一部だけを音として聞くこと、時間を連続ではなく断片として感じること。これらはすべて、観測点としての仕様である。
身体という徹底した制限装置
身体は自由を与えるためのものではない。むしろ逆で、身体は徹底的に世界を制限するための装置だ。
見えないものは見えず、聞こえないものは聞こえず、感じ取れない変化は存在しないのと同じになる。この制限がなければ、世界は情報の洪水となり、何ひとつ輪郭を持てなくなる。
制限があるからこそ、世界は「この世界」として立ち上がる。身体とは、宇宙が自分をぼかさずに見るために選んだ、かなり乱暴で不自由な方法だったとも言える。
進化を別の角度から見る
この視点に立つと、進化の見え方が少し変わる。進化は偶然の積み重ねや、生存競争の勝敗だけで説明されるものではなくなる。
実際に更新され続けてきたのは、「何を感じ取れるか」「何を無視するか」という観測パラメータだった。夜が見えるようになったこと、音の方向が分かるようになったこと、他者の表情を読み取れるようになったこと。これらはすべて、観測精度の調整である。
生き残ったのは、強い個体というより、「世界をうまく切り取れた観測点」だった。
意識は主体ではない
この理論では、意識を特別な主体として扱わない。意識とは、観測点が作動した結果として生まれるログのようなものだ。
見る、聞く、感じる。その結果として思考や感情が生まれる。つまり「私が見ている」のではなく、「見えるように設計された点が稼働している」という順序になる。
この見方は、人間の尊厳を否定するものではない。ただ、人間を宇宙の中心に置く視点から、少し横にずらすだけだ。
人間という存在の再配置
人間は、宇宙の目的そのものではない。宇宙が自己を観測するために設けた、無数の観測点のひとつである。
自由意志や個性、人格といったものは、この観測装置が長時間稼働するなかで生まれた副産物だ。それらは軽視されるべきものではないが、出発点ではない。
この再配置によって、人間は特別すぎる存在でも、取るに足らない存在でもなくなる。ちょうどいい位置に戻る。
これから開かれる問い
もし観測点が設計されたものだとしたら、その設計は変えられるのだろうか。観測精度は拡張できるのか。AIは新しい観測点になり得るのか。それとも、まったく別の役割を担うのか。
観測点デザイン理論は、答えを与えるための理論ではない。問いの立て方そのものを、少しだけずらすための道具である。
このずれが、次の思考の入口になる。